郡山の質屋からおトク情報発信中 「質屋情報」記事一覧

知っているようで知らない「質屋」の話 vol.30

2022年07月25日

日本で発行される記念金貨について

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前回のコラムに続き、今回も金のお話、中でも「日本で発行される記念金貨」をピンポイントで取り上げたいと思います。

金=インゴット、いわゆる金の延べ棒をイメージされる方が多いかもしれませんが、質屋で買い取りの対象となるのは金のネックレス、仏具のおりん、金歯など、金で作られているものなら何でもOKです。先日は、金の「天皇陛下御在位記念10万円金貨」をお買い取りしました。これを財布に入れてショッピングに出かける人はめったにいないと思いますが、貨幣の一種ですから10万円分のお買い物にちゃんと使えます。ここまで聞くと「重さを量ったら、10万円より高い計算になることもあるのでは?」と思いますよね。もし、この金貨が30gで金相場が8,400円/gの場合、30g×8,400円=252,000円という計算になります。

しかし、忘れてならないのは、ここでいう記念金貨はネックレスでもおりんでもない、"日本の貨幣"であることです。先ほど算出した252,000円とは、あくまで金を溶かす想定に基づく計算です。日本には、貨幣(硬貨)を故意に損傷したり、鋳つぶしたりしてはならない「貨幣損傷等取締法」という法律があるため、溶かすのはもちろん、穴をあけて紐を通してネックレスにしても罰せられます。「それなら、記念金貨を持っていても質屋には売れないじゃないか」とがっかりしないでください。ブレラ質アキヤマでは、お客様から買い取ったお品物をたくさんの販路を使い売却しています。記念金貨は専門業者と取引し、常にプレミアム価格をお客様にご提示できるできるように努めています。記念金貨はもちろん、「この金のアイテムは売れるのかな?」というちょっとした疑問でも気軽に相談してみてください。法律の範囲内でメリットのあるお取引をご提案させていただきます。


「金」が使われている時計を
お持ちの方はブレラ質アキヤマへ

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金の話、さらに続きます。このコラムの場を借りて、皆さまにぜひお伝えしたいことがあるからです。それは、ブレスレット(ベルト)やケースなどに金を使った時計についてです。金相場が上がっている今、腕時計の"金の目方"にも価値が置かれるようになりました。金が使われている時計をお持ちの皆さん、そこまでメジャーなブランドでなくとも、あきらめてしまう前に査定にお持ちいただいてみてはいかがでしょうか。当店では常に「ロレックス」をはじめ「オメガ」「パネライ」「ブライトリング」など、さまざまな有名ブランドの腕時計の取引をさせていただいておりますが、素材に金が使われていれば、「ブランド」に「金」の価値が加わり、さらなる高額査定を期待していただけるかもしれません。

金を使った時計やジュエリーを所有されていても、しまいっぱなしだと価値はある意味ゼロですが、質屋ならお値段がつく可能性があります。ご相談をお待ちしております。

知っているようで知らない「質屋」の話 vol.29

2022年07月09日

ブレラ質アキヤマは
開店から15周年を迎えました!

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2022年4月15日、ブレラ質アキヤマは開店から15周年を迎えました。これもひとえにお客様のご愛顧と、お取引様のご支援のおかげです。改めて御礼申し上げます。

15年前といえば2007(平成19)年です。皆さんはその頃、何をされていましたか?この15年間を振り返ると、実にさまざまなことがありました。リーマンショック、東日本大震災、政権交代劇、消費税率のアップ、新型コロナウイルスの蔓延......多くの出来事が次から次へと起こり、時代は平成から令和へと移り変わりました。

対して、開店当時より変わっていないことがあります。それは、質屋の商売がお客様1人ひとりに寄り添うものだということです。現在は、遠方にお住まいの方も品物の売却に利用できる「宅配買取」を実施していますが、基本はお客様との対面です。お店まで足を運んでくださったお客様が商品を手に取ったり、あるいは当店スタッフがお客様の品物を査定したりしながら、あれこれと会話を楽しめるのがこの商売の醍醐味だと思っています。デジタル化が進む社会にあって、質屋とは数百年前からずっとこのスタイルで続いてきた商売なのだと実感しております。

お客様とのやりとりを楽しむ一方で、ブレラ質アキヤマは世界情勢にもアンテナを張っています。それも質屋としての大切な仕事だからです。例えば「金(きん)」。金相場の話題はこちらのコラムで何度も取り上げていますが、今回も金の話題にお付き合いください。


金相場の動きが複雑な理由

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金は、まばゆいばかりの美しさや希少性を誇る貴金属で、長きにわたり世界中の人々に重宝されてきました。宝飾品はもとより産業用資源としても不可欠な物質であり、株式などとは違う次元でその価値が高く評価されています。資産として運用され、世情が不安定なときほど価値が上がる物質――それこそが金なのです。

金相場に関心がある方はご存知と思いますが、金は「ドル建て」取引が一般的です。金相場は、特にアメリカのニューヨーク市場とイギリスのロンドン市場が強い影響力をもっています。日本の金相場は「円/g」で表されますが、アメリカならびに世界基準は「$/toz(トロイオンスあたりドル)」。1トロイオンス=31.1035グラムに相当します。

2007年のブレラ質アキヤマ開店当時、金相場は2,500円/g前後でした。その後、上昇下落の波はあるものの相場は上がり続け、今年の4月20日に近年のピークである8,969円/gを記録しました。一方、アメリカの金相場の近年のピークは、日本より約1年8か月も前の2020年8月6日、2,069.4$/tozを記録しています。

このように、アメリカと日本の金相場の間にはタイムラグがあり、「ドル円の動き」も大きく影響するため、相場は複雑かつ予測困難な動きを見せます。当然、世界の政治経済の動向にも注視しなくてはなりません。だからこそ、ブレラ質アキヤマは質屋として個人のお客様に寄り添いながら、世界情勢にも目を向けているというわけです。

今年に入って金のお取引のためにお客様が来店されたピークは3月でした。ロシアによるウクライナ侵攻のニュースを聞いて「売り」に来られる方が多かったのもうなずけます。今後も、世界情勢をウォッチしながら、お客様に金をなるべく有利に運用していただけるようにお手伝いしたいと思います。(続く)

知っているようで知らない「質屋」の話 vol.28

2022年03月11日

がん闘病と父子の和解

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教育論で父と真正面からぶつかった後も、大学院での激務が続き、私の心身は次第に疲弊し、ついに退職を決意します。それについても父から猛反対されました。私を大学院に推薦したときいわき市教育委員会次長という立場に父がいたというのも反対理由のひとつだったと思います。しかし、私は自分の意思を貫きました。

退職後は体調も回復し、質屋の修業を始め、ブレラ質アキヤマを開店した次第です。父は長らく「息子は教員のキャリアを捨ててしまった。もったいないことだ」と不満に思っていたようです。

その後、父はがんを発症しました。私は父に1日も長く生きてもらいたい気持ちから、可能な限り最先端の治療を求め、郡山や東京への通院にも何度も付き添いました。父が一人で郡山に通院していたとき、ブレラ質アキヤマに寄ってくれたこともあります。がんの診断から5年ほど経った頃、私はお酒、父は酒以外の飲み物を酌み交わしているときのことです。父が言いました「お前が先生を続けていたら、通院や治療に寄り添ってもらうことはできなかったな。感謝しているよ」。長年のわだかまりはいつの間にか消えていたようでした。


父の応援を心の支えに

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父の東京への通院はコロナのためかなわなくなったのですが、コロナでなければもっと長く生きていたかもしれません。それでも、医師からはステージ4のがん患者が9年も生きた事例はあまりないと伺っています。病気や治療のつらさに耐え、脳などに転移した後もあきらめなかった父。本当によくがんばったと息子として誇りに思います。亡くなる1~2時間前まで意識があり、母と叔父が見守る中、自宅で永遠の眠りについたことも幸いだったのではないでしょうか。

誰もがいつかはあの世に旅立ちます。そして、遺族は悲しみに暮れる中、葬儀を執り行わなければなりません。でも、父の葬儀を通して父の想いや生き様を感じられたのはいうまでもなく、葬儀会社の担当者さんとの絆を深められたのも私にとって得難い経験になりました。

教員から質屋に転向した私を最終的には認め、応援してくれた父。葬儀という私的な内容をコラムにすることで私の気持ちも整理できたように思います。4回にわたり、プライベートなコラムにお付き合いいただきありがとうございました。今後も亡き父の応援を胸に、ますます質屋の仕事に精進して参ります。

知っているようで知らない「質屋」の話 vol.27

2022年01月18日

香典返しに込めた私の想い

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喪主としての私には大きな仕事がありました。香典返しです。コロナ禍でなければ参列された皆様に通夜振る舞いをするところ、それができなかった気持ちを込めて品物を選びました。

まずは、葬儀会社が勧めてくれた新規商品の乾物のセットです。後日「とてもおいしかったです。また食べたいのでどこの商品か教えてもらえますか」と尋ねてこられた人もいるほどで、これにしてよかったと思いました。また、参列してくださった方にはチョコレートも添えました。郡山の百貨店でゴディバと、ちょうど北海道物産展をしていたのでロイズと合計400個のチョコレートを調達しました。

おそらく父は、ここまでは望んでいなかったと思います。私は長男として、そしてブレラ質アキヤマの代表として、父を悼んでくださることへの感謝の気持ちをお品物に表させていただきました。

告別式を無事に終えると、私は催事中の大阪にとんぼ返りしました。身内の不幸があろうとも、商売は続けなければなりません。例のバーキンの精算をお願いした仕事仲間に「あのときはどうもありがとう。どうだった?」と真っ先に尋ねたところ、「実はキャンセルになっちゃいました」とまさかの返答。実は、私がいわきに戻った当日にキャンセルされ、「秋山さんには、とてもじゃないが言えない」と今まで黙っていたそうです。キャンセルは残念でしたが、その心遣いに私は感謝の気持ちでいっぱいになりました。


教員同士ゆえの対立

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大阪の催事を終えて郡山に戻り、日常を取り戻す中、在りし日の父についていろいろと思い出すようになりました。中でも、私が父と同じ教員の道を進んだことで真っ向から対立したのは、特に強く焼き付いている思い出のひとつです。それには次のような経緯がありました。

私の教員としての最後の職場は大学院でした。福島県には、現職の教員が大学院で学ぶ制度があるのです。私は、勤務先の小学校の校長先生と教育委員会の推薦を受け、大学院で2年間学ぶことになりました。29歳の私は小学校を休職し、20代前半の大学院生たちと席を並べて研究にいそしむ日々をスタートさせたのです。授業のカリキュラムは他の大学院生と同じで、ゼミにも所属しました。もしかしたら、読者の皆さんは「大学院生は小学校教員より忙しくない」という印象をお持ちになるかもしれませんが、実際は小学校の現場よりハードでした。それでも私は研究に打ち込みました。

ある日のこと、私にとってショックな出来事が起こります。大学院で学び、一生懸命考えた教育論を父に語ったところ、バッサリ否定されたのです。父は「大学院は小学校の現場よりラクなはずだ。いったい帰りが遅いとは何を学んでいるんだ」と思っていたようですが、私は深く傷つきました。(続く)

知っているようで知らない「質屋」の話 vol.26

2021年12月22日

自分の葬儀を準備していた父

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父はなぜ、自分の亡きあとの準備をしていたのでしょうか。まじめな性格と、秋山家が教員一家であることも理由と思われます。父、祖父は元教員、私の弟が現職の教員で、私も質屋を始める前は小学校の先生でした。教員は横のつながりが強く、父は生前に教員の葬儀に何度も参列していましたし、600人が参列された祖父の葬儀では喪主を務め上げました。これらの経験からおそらく葬儀の段取りをマスターしており、がんに罹ったことで自分の葬儀についても考えるようになったのだと思います。

さて、私と葬儀会社との打ち合わせは、2時間の予定が5時間にも及びました。父がいろいろと準備をしていたため、葬儀会社にとっては通常のマニュアルと異なる部分が多くなったからです。しかし、葬儀会社の担当者さんは、父の遺志を尊重し、私たち遺族に寄り添いながら、葬儀のプランを一生懸命考えてくださいました。

父の「自分の亡きあと9つの準備」のうち、5つは次の通りです。残り4つはコラム後半でお伝えします。
①訃報を知らせたい近親者の連絡先
②遺影
③新聞等のおくやみ欄掲載文
④戒名
⑤通夜、告別式の式次第

②「遺影」を作ってくださったのは父が中学校の先生をしていたときの教え子で、現在は写真館の社長として活躍されています。この社長さんには、2017年に私の祖父(父の父)が92歳で天寿を全うしたときもお世話になりました。すでにがんを患っていた父が喪主を務めたのですが、社長さんは「恩師のお父様ですから」と祭壇用の額をサービスで作ってくださったのです。父に至っては、遺影と祭壇用の両方をサービスしてくださいました。父が選んだ写真は、2018年春の叙勲(瑞宝双光章(教育功労))受章時の正装した姿がおさめられたものでした。社長さんが「先生ともう一度お酒を飲もうと話していたんですよ」と語る横で、「先生と生徒ならではの微笑ましいやり取りがあったのだろうなあ」と感じました。


父からのメッセージ

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父の「自分の亡きあと9つの準備」のうち、残る4つは次の通りです。
⑥弔辞を読んでくださる5名の人選(多すぎないか!?)
⑦父から会葬者の皆様へのメッセージ
⑧告別式で挨拶をする遺族代表
⑨精進落としに集まる近親者の連絡先リスト(1人ずつ役割分担あり)

⑥の「弔辞を読んでくださる5名の人選」は、教員独自の風習といえるでしょうか。5人のうち1人目は、「退職校長会いわき支部」の支部長、2人目は「福島県退職公務員組合いわき支部」の支部長と決まっていますが、あとの3人を誰にお願いするかまで父は決めていました。3人の人選について母からおもしろいエピソードを聞きましたが、ここでは割愛させていただきます。私は教員の世界を離れて長いので、弔辞を担当する方を父が決めてくれていたのは正直助かりました。父が闘病中にここまで準備していたことに、私はびっくりするというより「父らしいな」と感じました。

いよいよ告別式当日。コロナ以前に行われた祖父の葬儀の半分にあたる300人くらいがお越しになると予想していましたが、葬儀会社の方が「500人見ておいた方がよいでしょう」と言った通り、450人の方が足を運んでくださいました。

⑦「父から会葬者の皆様へのメッセージ」は司会者が読み上げ、会場の外には印刷したものが貼り出されました。父が生前に「がんであることを皆様にお伝えしていなかった理由」「家族に対する気持ち」を2枚にわたって書き綴ったものです。父は長い間、がんであることを家族以外には打ち明けずにいました。そのため、校長会や寺の檀家の総代などの役目を変わらず引き受けていました。病気を隠したい気持ちは理解できましたが、息子としては正直、「皆さんに病気のことをお伝えして、お役目は他の方にお願いしたらいいのに」という心境でした。結局、亡くなる2~3年前から周囲に少しずつ打ち明けていたようですが、事情をご存知なかった大勢の方にも、父は自分の言葉でお別れを伝える形となりました。

葬儀に参列してくださったブレラ質アキヤマの取引先の方は、「こんな告別式は初めてですよ」とおっしゃいましたが、きっとほとんどの方がそう感じていたと思います。(続く)