郡山の質屋からおトク情報発信中 「2021年12月」記事一覧

知っているようで知らない「質屋」の話 vol.26

2021年12月22日

自分の葬儀を準備していた父

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父はなぜ、自分の亡きあとの準備をしていたのでしょうか。まじめな性格と、秋山家が教員一家であることも理由と思われます。父、祖父は元教員、私の弟が現職の教員で、私も質屋を始める前は小学校の先生でした。教員は横のつながりが強く、父は生前に教員の葬儀に何度も参列していましたし、600人が参列された祖父の葬儀では喪主を務め上げました。これらの経験からおそらく葬儀の段取りをマスターしており、がんに罹ったことで自分の葬儀についても考えるようになったのだと思います。

さて、私と葬儀会社との打ち合わせは、2時間の予定が5時間にも及びました。父がいろいろと準備をしていたため、葬儀会社にとっては通常のマニュアルと異なる部分が多くなったからです。しかし、葬儀会社の担当者さんは、父の遺志を尊重し、私たち遺族に寄り添いながら、葬儀のプランを一生懸命考えてくださいました。

父の「自分の亡きあと9つの準備」のうち、5つは次の通りです。残り4つはコラム後半でお伝えします。
①訃報を知らせたい近親者の連絡先
②遺影
③新聞等のおくやみ欄掲載文
④戒名
⑤通夜、告別式の式次第

②「遺影」を作ってくださったのは父が中学校の先生をしていたときの教え子で、現在は写真館の社長として活躍されています。この社長さんには、2017年に私の祖父(父の父)が92歳で天寿を全うしたときもお世話になりました。すでにがんを患っていた父が喪主を務めたのですが、社長さんは「恩師のお父様ですから」と祭壇用の額をサービスで作ってくださったのです。父に至っては、遺影と祭壇用の両方をサービスしてくださいました。父が選んだ写真は、2018年春の叙勲(瑞宝双光章(教育功労))受章時の正装した姿がおさめられたものでした。社長さんが「先生ともう一度お酒を飲もうと話していたんですよ」と語る横で、「先生と生徒ならではの微笑ましいやり取りがあったのだろうなあ」と感じました。


父からのメッセージ

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父の「自分の亡きあと9つの準備」のうち、残る4つは次の通りです。
⑥弔辞を読んでくださる5名の人選(多すぎないか!?)
⑦父から会葬者の皆様へのメッセージ
⑧告別式で挨拶をする遺族代表
⑨精進落としに集まる近親者の連絡先リスト(1人ずつ役割分担あり)

⑥の「弔辞を読んでくださる5名の人選」は、教員独自の風習といえるでしょうか。5人のうち1人目は、「退職校長会いわき支部」の支部長、2人目は「福島県退職公務員組合いわき支部」の支部長と決まっていますが、あとの3人を誰にお願いするかまで父は決めていました。3人の人選について母からおもしろいエピソードを聞きましたが、ここでは割愛させていただきます。私は教員の世界を離れて長いので、弔辞を担当する方を父が決めてくれていたのは正直助かりました。父が闘病中にここまで準備していたことに、私はびっくりするというより「父らしいな」と感じました。

いよいよ告別式当日。コロナ以前に行われた祖父の葬儀の半分にあたる300人くらいがお越しになると予想していましたが、葬儀会社の方が「500人見ておいた方がよいでしょう」と言った通り、450人の方が足を運んでくださいました。

⑦「父から会葬者の皆様へのメッセージ」は司会者が読み上げ、会場の外には印刷したものが貼り出されました。父が生前に「がんであることを皆様にお伝えしていなかった理由」「家族に対する気持ち」を2枚にわたって書き綴ったものです。父は長い間、がんであることを家族以外には打ち明けずにいました。そのため、校長会や寺の檀家の総代などの役目を変わらず引き受けていました。病気を隠したい気持ちは理解できましたが、息子としては正直、「皆さんに病気のことをお伝えして、お役目は他の方にお願いしたらいいのに」という心境でした。結局、亡くなる2~3年前から周囲に少しずつ打ち明けていたようですが、事情をご存知なかった大勢の方にも、父は自分の言葉でお別れを伝える形となりました。

葬儀に参列してくださったブレラ質アキヤマの取引先の方は、「こんな告別式は初めてですよ」とおっしゃいましたが、きっとほとんどの方がそう感じていたと思います。(続く)

知っているようで知らない「質屋」の話 vol.25

2021年12月11日

9年の闘病の末、旅立った父

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これから4回にわたり、今年の2月にがんのため旅立った私の父の葬儀についてのコラムをお届けしたいと思います。質屋の商売とは異なる内容になりますが、どうぞお付き合いください。

まずは、8月の初盆に多くの方が足を運んでくださいましたこと、心より感謝申し上げます。コロナがまだ落ち着かない時期、お気持ちだけでも十分ありがたかったのですが、皆様のご来訪を亡き父も喜んでいたと思います。

さて、父がステージ4のがんと診断されたのは2012年、64歳のときのことでした。父は日頃から健康管理に気を付けており、教員を定年退職した後も、毎年欠かさず健康診断を受けていました。しかし、2011年に東日本大震災があり、放射能(レントゲン)にやや敏感になっていた父は1度だけ健康診断を見送りました。約2年ぶりの健康診断でがんが見つかり、自覚症状は一切なかったのですが余命半年~1年と診断されました。息子としては「健康診断を受けていれば、もっと早期にがんに気づくことができたのでは」という悔しい思いが込みあがりましたが、一番ショックを受けたのは父本人に違いありません。しかし、父は「生きられるだけ生きたい」と前向きでした。父の強い意志が、がんと闘う力を引き出したのでしょう。抗がん剤と先進治療を並行し、その後、転移もありましたが、医療技術の進歩、医療関係者および周囲の皆様に支えられ、がんの診断から9年間を生き抜きました。

父は息を引き取る前日、介護タクシーに乗って歯医者にかかりました。帰宅後に熱が出たため、夕食を摂らずに寝たそうです。翌朝には熱も下がり、お腹がすいたと言って母が作ったおかゆをばくばく食べました。再び横になって1~2時間ほどした頃、様子がおかしいことに母が気づき、近所に住む父の弟(私の叔父)を呼びました。それからしばらくして息を引き取ったそうです。


急ぎ、大阪からいわきへ

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その日、私は質流れの催事のために大阪にいました。朝、会場である阪神百貨店に着くと知らない番号から電話があり、出てみると叔父でした。「実か。兄貴はもうだめだ」と言うので「危篤なのか」と驚いたのですが、「いや、もうだめだ」と返され、すでに世を去ったことを知りました。2週間前にいわきの実家に帰ったときはいつもと変わりがなかったので、にわかには信じられない気持ちでいっぱいでした。

催事でお世話になっている方から「すぐに帰りなさい。残った我々で何とかするから」と送り出され、私は、大阪の梅田から伊丹空港へ急ぎました。父の死に目に会えないことが確定しているせいでしょうか。「今日は、催事のお客様が100万円を超えるエルメスのバーキンの精算にお越しになるんだが......」という思いが頭をよぎりましたが、仕事のことは任せるよりほかありません。この時期、コロナの影響で伊丹-福島の飛行機は1日1便でしたから「福島行きの便が無理ならば、せめて仙台行きに乗りたい」と思っていたところ、幸い、11:20発の福島行きにぎりぎり間に合い、13:30にはいわきの実家に帰宅することができました。その30分後に主治医の先生がお越しになり、改めて臨終を告げられました。

息をつく間もなく、次は葬儀会社との打ち合わせです。喪主は長男である私です。通夜や葬儀というのは不慣れなうえに、急いで決めなければならないこと、やらなければならないことが山のようにあり、家族を失った悲しみに浸る間もありません。しかし私は、驚くべき事実を知ります。父が生前に「自分の亡きあと」について9つの準備をし、それを母にだけ知らせていたのです。(続く)

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