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知っているようで知らない「質屋」の話 vol.25

2021年12月11日

9年の闘病の末、旅立った父

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これから4回にわたり、今年の2月にがんのため旅立った私の父の葬儀についてのコラムをお届けしたいと思います。質屋の商売とは異なる内容になりますが、どうぞお付き合いください。

まずは、8月の初盆に多くの方が足を運んでくださいましたこと、心より感謝申し上げます。コロナがまだ落ち着かない時期、お気持ちだけでも十分ありがたかったのですが、皆様のご来訪を亡き父も喜んでいたと思います。

さて、父がステージ4のがんと診断されたのは2012年、64歳のときのことでした。父は日頃から健康管理に気を付けており、教員を定年退職した後も、毎年欠かさず健康診断を受けていました。しかし、2011年に東日本大震災があり、放射能(レントゲン)にやや敏感になっていた父は1度だけ健康診断を見送りました。約2年ぶりの健康診断でがんが見つかり、自覚症状は一切なかったのですが余命半年~1年と診断されました。息子としては「健康診断を受けていれば、もっと早期にがんに気づくことができたのでは」という悔しい思いが込みあがりましたが、一番ショックを受けたのは父本人に違いありません。しかし、父は「生きられるだけ生きたい」と前向きでした。父の強い意志が、がんと闘う力を引き出したのでしょう。抗がん剤と先進治療を並行し、その後、転移もありましたが、医療技術の進歩、医療関係者および周囲の皆様に支えられ、がんの診断から9年間を生き抜きました。

父は息を引き取る前日、介護タクシーに乗って歯医者にかかりました。帰宅後に熱が出たため、夕食を摂らずに寝たそうです。翌朝には熱も下がり、お腹がすいたと言って母が作ったおかゆをばくばく食べました。再び横になって1~2時間ほどした頃、様子がおかしいことに母が気づき、近所に住む父の弟(私の叔父)を呼びました。それからしばらくして息を引き取ったそうです。


急ぎ、大阪からいわきへ

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その日、私は質流れの催事のために大阪にいました。朝、会場である阪神百貨店に着くと知らない番号から電話があり、出てみると叔父でした。「実か。兄貴はもうだめだ」と言うので「危篤なのか」と驚いたのですが、「いや、もうだめだ」と返され、すでに世を去ったことを知りました。2週間前にいわきの実家に帰ったときはいつもと変わりがなかったので、にわかには信じられない気持ちでいっぱいでした。

催事でお世話になっている方から「すぐに帰りなさい。残った我々で何とかするから」と送り出され、私は、大阪の梅田から伊丹空港へ急ぎました。父の死に目に会えないことが確定しているせいでしょうか。「今日は、催事のお客様が100万円を超えるエルメスのバーキンの精算にお越しになるんだが......」という思いが頭をよぎりましたが、仕事のことは任せるよりほかありません。この時期、コロナの影響で伊丹-福島の飛行機は1日1便でしたから「福島行きの便が無理ならば、せめて仙台行きに乗りたい」と思っていたところ、幸い、11:20発の福島行きにぎりぎり間に合い、13:30にはいわきの実家に帰宅することができました。その30分後に主治医の先生がお越しになり、改めて臨終を告げられました。

息をつく間もなく、次は葬儀会社との打ち合わせです。喪主は長男である私です。通夜や葬儀というのは不慣れなうえに、急いで決めなければならないこと、やらなければならないことが山のようにあり、家族を失った悲しみに浸る間もありません。しかし私は、驚くべき事実を知ります。父が生前に「自分の亡きあと」について9つの準備をし、それを母にだけ知らせていたのです。(続く)