Brera質アキヤマ 知るほど・なるほど 「質屋さん裏ばなし」記事一覧

質屋の社長 秋山実です Vol.7

2015年11月07日

ついに打ち明けた!「質屋になりたい」

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教育論で衝突して以来、父と私の間には気まずい空気が流れていました。この頃、すでに質屋への思いをふくらませていた私ですが、なかなか父に言い出すことができません。

これには、理由があります。父は当時、教育委員会に籍を置いており、私が受けた大学院での長期研修の辞令にも関わっていたようなのです。息子が、研修期間の途中で畑違いの業種に転職するなんて、父にとってはありえないこと。きっと、「示しがつかない。せめて2年は続けられないのか」くらい言われるに決まっています。しかし、私には大学院で学ぶ元気も意欲も残っていませんでした。

考えた私は、別の病院をたずねることにしました。診断内容は、やはりうつ。これなら、父も受け入れてくれるのではないだろうか? 私は、ついに父に打ち明けました。「教員を辞めて、質屋をやりたい」と――。


ようやく動き出した質屋への夢

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心身共に疲れ果て、大学院での研修を続けることが困難になっていた私は、2つの病院で、うつと診断されました。さすがの父も、私の「質屋をやりたい」という思いを受け入れてくれました。

 質屋への道を歩み出した私は、うつの原因から解放されたためでしょうか。心身もぐんぐん回復していきました。

私の父とは対照的に、妻の父、つまり私にとっての義父は、「質屋になりたい」という私の気持ちを以前から応援してくれていました。「実君ならだいじょうぶだよ」と声をかけてもらうたびに、うれしく思っていたものです。そんな義父も、本当に私が先生を辞めて質屋になると聞いたときは、大あわて。「私のひとことのせいで、実君のお父さんには申し訳ないことをした」と言っていたことも、今となってはよい思い出ですね。(続く)


質屋の社長 秋山実です Vol.6

2015年10月08日

父と衝突し、心がポキッと折れた!

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中学校の教師として何十年のキャリアを持つ父。大学を出て数年間、小学校の教壇に立った後、長期研修という形で大学院で学んでいた私。「教育」に携わる者同士が繰り広げた議論は、かなり激しいものでした。

父にしてみれば、息子を叱咤激励しているつもりだったのでしょう。父も私も、もう少し肩の力を抜いて話し合えればよかったのですが、真正面からぶつかり合ったわけです。父の厳しい言葉に打ちのめされ、私の心はポキッと折れてしまいました。

大学院での学びそのものもハードですし、いずれ、小学校の現場に戻ったときには、大学院での学びをきちんとフィードバックしなければなりません。疲労とプレッシャーが積み重なり、ついに、「大学院に行きたくない」という心境に。身体的にも精神的にも元気をなくした私は、仕方なく病院を訪れました。


芽生え始めた質屋への想い

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教育への志に燃えていたはずが体調を崩し、大学院に行くのも億劫になってしまった時期と前後して、私の中には質屋に対する関心が芽生え始めていました。きっかけは、妻です。妻の実家は質屋で、妻は幼いころから店に置いてある品物を見るたび、ワクワクしていたそうです。しかし、店は妻の兄が継ぐことが決まっていました。「私も質屋をやりたいけれど、店はお兄ちゃんが継ぐのだから...」という思いを抱えていた妻は、質屋が継げないのならせめて手に職をと考え、薬剤師になりました。そして、教師である私と出会って結婚したのです。私は私で、教員一家に育ったせいでしょうか。質屋の商売が新鮮に映り、おもしろそうだなあと感じるようになりました。

 さて、病院に行った話に戻しましょう。医師による診断結果は「うつ」でした。予想はしていたものの、はっきり告げられた時の衝撃は、さすがに大きかったことを覚えています。(続く)


質屋の社長 秋山実です Vol.5

2015年09月09日

結婚、そして大学院へ

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小学校の先生になって数年後、私に2つの大きな転機が訪れました。

1つめは、Brera質アキヤマの店長である江里子との結婚です。この結婚がなければ、私は質屋になるなど夢にも思わなかったことでしょう。詳しくはまたの機会にお話ししますが、出会いのきっかけはコンパだったということだけお伝えしておきます(笑)。

2つめは、大学院での長期研修です。小学校での勤務態度を評価してくださったのでしょうか。教育委員会からの推薦が必要な大学院での研修はある意味、名誉なことでもありました。新婚早々、私は大学院生としての生活をスタートさせたのです。一般企業でいうところの出向のようなもので、数年ぶりに"教わる学生"の立場に戻りました。

教育熱心な教授の元で専攻である数学を勉強しながら、子どもたちのコミュニケーション活動や学びのスタイルについて研究を続ける日々。そんなある日、事件が起こりました。

先生同士の衝突!~父と私~

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事件とは、父との意見の衝突です。秋山家は先生が大多数を占める教員一家で、祖父も父も中学校の先生でした。私と父は、先生という同じ仕事をもつ者同士で、教育に関する意見が対立したのです。

 ちなみに、私は基本的に明るい性格です。当時の少し重たい話をするのは気が引けますが、いろいろなことが起こるのが人生ですよね。医者を目指していた私が先生になり、先生の仕事にやりがいを見いだし、妻と出会って結婚し、研修のため大学院へ。めまぐるしい日々の中、のんびり休めたことはほとんどなく、疲れがたまっていたのかもしれません。

大学院で理論をみっちり学び、自分なりに築いた教育の理想論を掲げる私でしたが、現場主義の父から見ると未熟に思えたのでしょう。「現場より理論に偏っているのではないか」「大学院は現場より楽だろう」との厳しい言葉が返ってきました。私だって、つい最近まで現場にいました。それに、大学院は楽じゃありません。新婚の私が研究のために午前様になることもしょっちゅうだったほどです。しかし、教育者としては何十年も先輩である父の言葉が、私にダメージを与えないはずはありませんでした。(続く)

質屋の社長 秋山実です Vol.4

2015年08月05日

気付けば教育ひとすじ

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受け持ちの6年生が卒業式を迎えた3月。私にとって、教え子の卒業に立ち会うのは初めてのことでした。一人ひとりの顔を見るにつけて、さまざまな思い出がよみがえり、胸が熱くなりました。「子どもたちは成長している。教師としての自分も、もっとがんばらなくては」と気を引き締めたものです。中高生のころは、金持ちになりたいからと医者を夢見ていた私も、先生になってからは教育ひとすじ。基本的に、まじめな先生だったと思います。

4月になり、私は再び6年生のクラスの担任を務め、その子たちの卒業と同時に4年間勤めた熊町小学校から、いわき市立三阪小学校に異動しました。三阪小学校は今年の4月に廃校となり、近隣の小学校と合併して三和小学校になったそうですね。当時も、一学年10人ほどの小さな小学校でした。

小さな小学校ほど大忙し!

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教師などの地方公務員の多くが数年間「僻地経験」をします。いわき市は私の地元ですが、三阪小学校があったのは小野町寄りの山合い。中学校と校舎を共有する、こじんまりとした学校でした。

 こんなふうに書くと、「のどかでのんびりした教師生活を送ったのでは?」と思われそうですが、現実は違います。前回のコラムで、先生には授業以外に研究公開という仕事があって大変だと書きましたが、三阪小学校に着任して2年目のこと。私は校長先生から研究公開の主任を命ぜられました。熊町小学校では新米教師だったのでサポート役ですみましたが、今回は主任です。学校の規模に比例して先生の数も少なかったので、作業量は膨大でした。科目は家庭科で、裁縫や調理、基礎的な栄養学などに取り組む日々が続きます。

それ以外にも、いわき市は水泳や陸上競技が盛んだったため、研究公開の仕事と並行して放課後は練習に立ち会い、大会があれば引率するなど毎日バタバタと過ごしていました。(続く)

質屋の社長 秋山実です Vol.3

2015年07月08日

熊町小学校で先生デビュー

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100人の定員に対し、1,300人が受験した福島県の小学校教員採用試験。狭い枠ではありましたが幸運にも合格を果たし、「受験番号1番は合格できないジンクス」もどうやら破ることができたようです。

お金が儲かるという単純な理由で医者や歯医者を夢見ていたのは過去の話。先生になれた喜びを胸に、1997年春、浜通りにある双葉郡大熊町立熊町小学校に着任しました。14年後、この町が震災で大きな被害を受けることになるとは思いもよらなかったころです。(ちなみに、Brera質アキヤマは震災発生の4年前にオープンしました。震災のときのお話は、また別の機会にお届けします)

 先生になって間もなくのこと。新米教師の私は「先生の仕事の現実」を思い知ることになります。

小学校の先生は授業以外も大忙し

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今でも「秋山さん、先生してたんだ。夏休みは暇だったでしょ?」なんて言われることがありますが、答えは「NO」。授業以外にも仕事があるんですよ。特にたいへんだったのが「研究公開」です。研究公開とは、資料や教材を自力で探して研究結果にまとめ、最終的に公開授業を行うもの。新米教師だった私は、他の先生たちのサポート役としてがんばりましたが、とにかく調べ物が多い! 通常の仕事と同時進行で作業をするため、残業したり、夏休みの時間を利用したりしていたというわけです。

 ただ、研究公開はあくまでサブの仕事です。初めて受け持った3年生の子どもたちと充実した日々を送り、4年生も持ち上がりで担任を務めました。次の年は、6年生のクラスの担任になります。1年はあっという間に過ぎ、3月になりました。私は、初めて自分のクラスの子どもたちが卒業する日を迎えたのです。(続く)